ぼくの記憶の中で多分一番最初にあるのは、母に抱かれてどこだか判らない街を出て行っている記憶。
ぼくはまだ歩けないし言葉もほとんど話せなかったけど、それでもその映像だけははっきりと覚えてる。並んでいる建物はチョコレートみたいな色をしていて、その上の空はまるで誰かに色も雲も何もかも盗まれてしまったかのように真っ白だった。
街を出て行こうとする母とぼくを、町の人たちが遠くから見ていた。どうしてみんなあんなに遠くからぼくたちを見ていたんだろう?お別れが言いたかったのなら、恥ずかしがらずに近付いてきたらよかったのに。ぼくはもう歩けるし、自分で着替えることだってできるし、それに自分の名前も歳もちゃんと言える。だから、お別れが言いたいけど恥ずかしくって言えない人がいたら、傍によって行って、「恥ずかしがらなくてもいいよ」って言ってあげよう。
 

名前の知らない虫が名前の知らない花の茎をゆっくりと降りていっているとき、母がいつものゲームを始めようと言った。
ぼくはのそのそと茎を伝って、その体の重みで落っこちてしまいそうだけれど落っこちない、そして徐々に徐々に地面へと到達しそうな虫の体を、そっと指でつついてみた。
「うん、お母さんは今度は何て名前の人になるの?」虫は少しびっくりしたように見えて、一瞬動きを止めたけれど、それからまた茎を降り始めた。
「そうね、どうしようかな……じゃあ今度はヨハンナ。いい?お母さんの名前はヨハンナ」背の高い花の茎は長くて、虫はまだその茎の半分も制覇していなかった。ゆっくりと進む虫が大地に降りるのはいつなんだろう?果てしなく先のことみたいに思える。
「じゃあぼくはクーザだよ」「まあクーザ?それじゃあ私達は夫婦ということになってしまうわね?」「だめ?」振り返って母の顔を見ると、母は笑っていた。「いいえ全然オーケー。よろしくねクーザ」何故この虫は大地を欲しているんだろう?その望みが叶っても、それは新しい苦しみの始まりかもしれない。大地を進んで次の目的の場所まで行くのには、更に多くの時間がかかるだろう。その途中に、誰かに踏み潰されてしまうかもしれない。虫はそんな事は知らないんだ。ただ自分の願いを叶えようとしているだけ。
「うん、よろしくねヨハンナ」ぼくは立ち上がり、母の手を取って笑いかけた。母も笑い、ぼくたちは歩き出す。ぼくは虫が伝う花をもう振り返ることはない。その虫が大地に辿りつけたのか、辿りついた後どこへ向かうのかも、もう知ることはない。


ぼくたちの持ち物は、少しのお金と少しの着替え、二枚の毛布、そして一冊の聖書だけ。
いつもぼくたちと一緒に旅をし、ぼくたちを救ってくれる物たち。
新しい町に着いた時も、やっぱり一緒にいる。お金と着替えと毛布の入った袋は母が…ヨハンナが持っていて、そしてぼくは聖書を抱き締めている。
ぼくたちの新しい家(カシヤって言うのだと、母が教えてくれた)は3階建ての石造りの建物の、2階の一室だ。電灯がなくて夜は蝋燭を灯さなきゃ闇に食べられてしまいそうに真っ暗だし、それに無慈悲な冷たい石で囲まれて寒い、小さな部屋。
それでもぼくは全然構わない。母がいて聖書があれば、ぼくはどこにいたって幸せ。例えば聖書をなくしてしまっても、母さえいればぼくは幸せ。
四角い窓から四角く切り取られたような街の風景が見える。朝ごはんにパンとじゃがいもを食べてお茶を飲んだ後、母が仕事を探しに街へ出かけることになる。
「じゃあ、ぼく、外で遊んでていい?」そう言うと母は心配そうな顔になる。「大丈夫?その、ここには来たばかりだし、迷子にでもなったら…」
ぼくは母を心配させたくなくて、目をくるんと回してみせた。「大丈夫だよ」そうしてにっこり笑う。
母もそれでやっと笑ってくれて、ぼくはとっても嬉しい。「そうね、大丈夫よね。…」
ぼくはいってきますを言って、母より先に外へ飛び出した。聖書も一緒だ。これからどこへ行くかなんてぼくにも判らないけど、ぼくはぼくの足の行きたい方へ行かせてあげる。
空は完璧な青色で、ぼくはこれは神様の色だなって思う。神様の絵の具で塗った、完璧に美しい青。ぼくもその中へ、飛んでいってしまいたい。だけど、そうしたら母は地面に一人ぼっちだ。
神様の青に包まれてるぼくは、同時に幸福にも包まれてるに違いない。だけど天から一人ぼっちの母を見下ろさなきゃいけないことを考えると、ぼくは泣いてしまいそうになる。ぼくは神様の青に包まれなくたっていい、母を一人ぼっちにするくらいなら。
小さな教会の階段に、赤毛の天使が座っていた。天使はふわふわの赤毛を風に遊ばせながら、もぐもぐと何かを食べていた。
「ハーイ」天使が話しかけてきて、ぼくはびっくりした。「あんた、もしかして新しくこの街に来た子?どうしてそんなにおばかさんみたいな顔してるの?」
天使は顔をしかめてごくんと口の中の物を飲み込む。「ごめんなさい、あたしったら口が悪くって。今も友達に悪口を言っちゃったことを神父様に告解に来たばかりなの。でもだって、あんた目も口も大きく開けちゃって。一体どうしたっていうの?」
ぼくは天使がこんなにおしゃべりだとは知らなかったから、ますますびっくりしてますます目も口も大きく開ける。そうしたら天使が笑い出した。
「あんた変!それともあたしが変だからそんな顔してるの?ううん、やっぱり変なのはあんた!」暫らく天使は笑い続けて、やっと笑い終わるとぼくに手招きした。ちょんちょんと自分の隣を指差すので、ぼくは天使の横に座った。
「あたしアンジェラっていうの。アンジェラスの鐘が鳴ってるときに生まれたから」
「いい名前だね」本当にそう思う。やっぱりこの子は天使だった。
「ありがと。あんたは何て名前?」
「クーザ」
「ふーん、あんただって素敵な名前」
ぼくは小さく頷くけどこれは本当の名前じゃない。だからアンジェラに心の中で謝った。
「ねえあんた最近この街に来た子でしょう?ママが言ってたもの」
ぼくはまた頷く。
「珍しい肌の色の親子が来たって。だからあたしすぐ判ったわ。確かにあんたの肌の色ってこの街じゃ見かけない」
「今までの街でもそう言われたよ。皆白い肌の色だったから」
「でも綺麗よこの肌の色。それに髪もね。チョコレートみたい。あら、あんたの髪の毛柔らかくてさらさら!」
アンジェラがぼくの頭を撫でるので、ぼくは少し嬉しくなった。理由がなくても頭を撫でてもらえるのは嬉しい。
「ねえタフィあげるわ」アンジェラがポケットから紙包みを取り出してぼくの手に握らせてくれた。初めて見るものだから、ぼくは何だか判らない。
「あんたタフィ知らないの?」
ぼくが頷くとアンジェラはぼくの手の中の紙包みを開いて、「口開けて」その中身をぼくの口の中に放り込んでくれた。甘くてとろりとしたものが口の中一杯に広がる。天使の食べ物は何て素敵なんだろう。こんな素敵なものを食べてるから天使はずっと清らかな子どものままなんだ。ぼくも天使みたいになれるのかな?……
教会の鐘が突然鳴って(当たり前だ。「今から鳴りますよ」なんて教える鐘なんて聞いたことも見たこともない)、ぼくはびっくりして、もう少しで聖書を落としてしまいそうだった。そんなぼくを見てアンジェラがまた笑う。
「ああ、あたしもう帰らなくちゃ。アンジェラスの鐘が鳴る頃には帰ってこいって、ママに言われてんの」
アンジェラはそう言って腰を上げた。長い赤毛がふわふわ揺れている。きっとアンジェラはこの髪の毛の下に羽を隠してるんだ。そうしないと、人間の世界では生きていかれないから。いつかぼくにも羽を見せてくれたらいいな。
「じゃあねクーザ。また会えるかもね」
走っていくアンジェラに手を振りながら、そういえばぼくはアンジェラにタフィのお礼を言っていなかったことに気付いた。
ああ、いけないことだ。母はいつもぼくに感謝の気持ちを忘れてはいけないと言っている。だけど初めて食べた天使の食べ物はあんまりおいしくて、ぼくから感謝の言葉を奪ってしまった。
どうしよう、さっきのアンジェラみたいに、神父様に告解に行こうかな。だけどぼくは告解に行ったことなんてないから、どうしたらいいか判らない。
でも、そうだ、アンジェラはまた会えるかもねって言っていた。そうだ、アンジェラとぼくは、同じ町に住んでいるんだから。
今度会ったらお礼を言うのを忘れないようにしよう。天使の食べ物を分けてくれてありがとうって。


だけどぼくたちは、いつもと同じ様に一ヶ月もしないうちにこの町を離れることになった。
ぼくたちはいつも同じ様に、少しのお金と少しの着替え、二枚の毛布、そして一冊の聖書だけを持ってこの街を出ていく。
太陽も出ていないような朝早くだったから、道にはお別れを言う人もいない。
「お母さん、今度はどこへ行くの?」
「そうねどこへ行こうか…」
母の声は震えていて、目からすーっと涙が零れた。ぼくも泣きそうになる。
「お母さん、泣かないで…」
「ごめんね、どうして涙が出るのかしら、ごめんね……」
母はうずくまってぼくを抱き締めた。あたたかいけど寒い。泣いている母に抱き締めてもらっても、ぼくはちっとも嬉しくない。
「泣かないでお母さん、ぼくがいるよ」
薄紫色の空には、やっと太陽が姿を現わせたところ。光の中で母が震えている。ぼくはいつも母がしてくれるみたいに、母を抱き締めた。
「ぼくがいるから。ぼくがお母さんを守るから。だから泣かないで…」
ぎゅっと母を抱き締める。ぼくはお母さんが大好きだよ、ぼくがお母さんを守るよってことを知ってもらいたくて、強く強く抱き締める。
お礼を言えなくてごめんなさいアンジェラ、とずっと遠くに見える教会の十字架に謝った。きっと神様がアンジェラに伝えてくれるはず。


ぼくはヨセフ、母はマリア。
マリア様ヨセフ様の御名をお借りするなんて恐れ多いけど、と母が言う。どうかこの子をお守り下さいますように。
もういくつめかの名前だかも忘れてしまった。あんまり別の名前になりすぎて、いつか本当の名前を忘れてしまいはしないだろうかって不安になることもあるけれど、でも大丈夫。 母がぼくにくれたこの名前は、何があっても絶対に忘れたりはしない。
ぼくは聖書に出てくる人以外の名前をほとんど知らないから、いつか聖書の名前を全部使い終わってしまったらどうしようかって思う。
そうだお母さんに考えてもらおうかな。お母さんはたくさんものを知ってるから。
ぼくはどれだけたくさん歩いても、全然疲れたりしないから、うんと遠くまで歩くことができる。だけどぼくは大丈夫でも、あんまり歩き続けていると母が疲れてしまうから、新しい所へ行くときは、途中で何度もお休みをする。その時だけ母はこっそり小さな声でぼくの本当の名前を呼んでくれる。ぼくはそれがとっても嬉しい。
たくさん歩けるぼくはいいこ?と母に聞くと、母は悲しそうな、何だかおかしな顔で微笑む。たくさんたくさん歩けたり、うんとうんと速く走れたり、ずっとずっと高い木の枝まで跳べたりすることは、あまりいいことじゃないのかな?だからぼくは、もうそんなことはしない。母が悲しそうな、おかしな顔をするから。
新しい町に着いてからまず、母はお店でパンをいくつか買った。お店の店主さんは気の良さそうなおじさんで、ぽいぽいパンを紙袋に放り込んでいく。
「見ない顔だね奥さん。そんな肌の色をしてたら一度見りゃあ忘れないんだが」
「北の方から来たんです」
「なに、北の方?最近北の方でダークストーカーに襲われた町があるそうだが、ああ気の毒に、そうか奥さん、そんな所にはいられねえってんでこっちの方へ来たのかい?」
母はあの悲しそうな、何だかおかしな顔で、ええ、まあと曖昧に頷いた。
パンを受け取って、母は店主さんにこの町に教会はありますか、あれば教えていただきたいのですが、と訊ねる。教会の場所を教えてもらったら、母がどうするかはもう解っている。 まずぼくを連れて教会へ行き、お祈りをする。母はいつも、この子をお守りくださいますように、ってお祈りしているけれど、一体神様に何からぼくを守ってもらえるのか解らない。きっと母の言う事をちゃんと聞いて、お祈りをして、聖書をたくさん読んで…そうしたらそのうち解るようになるんだ。この世界には不思議なことがいっぱいだから。
それから神父様に分けてもらった聖水を持って帰って、宿屋やカシヤの部屋の周りと中に撒いておく。新しい町に着くたびに必ずやることだから、多分これは聖体拝領みたいな、儀式みたいなものなんだと思う。ちゃんと解っててえらいでしょう、って、ぼくは母に褒めてもらいたい。

「お名前なんて言うんだい?」
「ヨセフ」
「まーあいい名前だねえ」
母を三人合わせてもまだ足りないくらいふっくらしたおばさんの笑顔を見て、ぼくもつられて笑い返した。おばさんが頭を撫でてくれる。
きっとこのおばさんはあったかくておいしいパンをたくさんたくさん食べてるんだろうな。そうでなきゃこんなあったかいパンみたいな笑顔ができるはずがない。
「どのくらい宿泊されるか、はっきりしてらっしゃいます?」
「いえ、まだ…」
「お好きなだけごゆっくりしてって下さいね」
おばさんのゆっくりして弾むような声は、聞いててとっても気持ちがいい。初めて会うおばさんだけど、ぼくはちょっとおばさんが好きになった。
「それじゃ、お部屋へご案内しますね」
ぼくと母はおばさんの後について、階段を上る。階段の途中の壁にはマリア様が八天使に囲まれて赤ちゃんのイエス様を抱いている絵が飾ってある。
階段全部を埋め尽くしてしまいそうなおばさんが上るたびに木でできた階段はみしみしいって、ぼくはくすくす笑ってしまいそうになる。ぼくを見て口に人差し指をあてる母の顔も笑っていた。
ぼくたちが泊まることになった部屋にはベッドが二つあって、小さいけど机もあるし、それに窓から入ってくるお日様の光はとってもあったかい。
部屋の中にもマリア様の絵が一枚かけてあった。教会で分けてもらった聖水を撒いた後、母が呟いた。マリア様も守ってくださるだろうから、きっと大丈夫。
ベッドは二つあるけれど、眠る時ぼくは母のベッドで一緒に眠るから、寂しそうなぼくのベッドを見ると申し訳ない気持ちになる。だけどぼくはやっぱり母と眠るのが好きだから、ぼくのベッドには悪いけど我慢してもらうことにする。母はとってもあったかくて、ぼくはお日様みたいだと思う。
字を書くことが得意な母は、手紙の宛名書きの仕事をすることになった。小さな机にたくさん封筒を置いて、それに丁寧に宛名を書いている母の横で、ぼくはベッドに座って聖書を読んでいる。
母の書く字は母みたいにとっても綺麗で、ぼくはそれが書かれた封筒を誰かにあげたくないって思う。そう言うと母は笑ってぼくの頭を撫でて、この字は誰かの所へ行っちゃうけれど、私はここにいるでしょう、と言った。だからぼくはもう母の字を独り占めしたいなんて思わない。
母が宛名を書く音だけが響く部屋で、ぼくは聖書を読む。いつも持ち歩いている聖書はあんまり読みすぎてもうボロボロになりかけている。
……その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次々に旅しておられた。十二弟子もお供をした。……
こんこん。心地よかった母が宛名を書く音がぴたりと止んで、「はい」母が返事をするとドアからおばさんが顔を覗かせた。いつものあったかい笑顔がない。「何でしょう?」母が訊ねるとおばさんはぼくの方をちらっと見てから母に手招きした。
「よくないお知らせなんだけどねマリアさん、大変なのよ…」
……また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。
「一昨日辺りから何だかよくわかんない病気が流行りだしちゃったらしくてね、今病院が大変らしいのよ」
さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもちにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
「だからあんた達、ちょっと落ち着くまであんまり外を出歩かない方がいいよ。どこで病気もらってくるかわからないからね」
また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
「もう町の皆はびくびくだよ。なんせ病気の原因がわかんないらしいからね」
また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
「ああまったく可哀相にねえ、あんた達。ちょうど変な病気が流行りだしたときにこの町へ来ちゃうなんて…」
また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
「あんた達が来るまでこんな事なかったっていうのに」

ぼくたちのことを可哀相だって言ってくれたおばさんは、だけど病気でたくさん人が死んで原因のわからない火事でたくさん人が死んで酒場でのちょっとしたケンカが大きくなってたくさん人が怪我をしてぼくたちを見ると町のみんなが内緒話をしたり避けたりするようになってぼくたちの部屋に石が投げ込まれるようになると、ぼくたちを自分の宿屋に泊めていられなくなった。
「悪いんだけどねえあんた達、そのう…、出て行ってくれないかねえ」
一階にある時計はシカケ時計で、時間になると音楽と一緒に天使が飛び出してきてくるくる踊り出す。ぼくはこの時計が大好きだった。
「こんなちっちゃなヨセフ坊や連れてるあんたにこんなこと言いたくないんだよ、だけどね…」
時計の長い針が12のところに来れば天使が出てきてくれるんだけど。今長い針は8と9の間にいる。あの長い針をぼくがくるっと12のところまで持っていってあげるのはずるいかな。
「あんた達が来てからなんだよね、おかしな事が起こり始めたのは……」
でも長い針だっていつも楽しそうに踊っている天使のことは大好きだと思う。だからいつも必ず12のところまで行って、天使が踊れるように音楽を流すんだ。
「ああごめんよ本当に…でも町のみんな、うるさいんだ、いつまであんた達を泊めておくのかって」
ぼくは長い針を12のところまで持っていって、天使に踊ってもらおうと思ったけれど、母がぼくの手をぎゅっと握っているのでできない。母に握られた手は少し痛いけれど、ぼくは口には出さない。
「…明日には、必ずこの町を離れます、だけど、どうか今晩だけは泊めて下さい、もう外は暗くて、今からこの子を連れて行くのは…」
だってぼくの手を痛いくらいに握っている母の手は、少し震えていたから。
「あたしもそうしてやりたいよ、だけど…」
「お願いします、どうか…」
母の声がかき消されるくらい大きな音で宿屋のドアがノックされて、ぼくも母もおばさんもびっくりした。
ノックの音と一緒にたくさんの人の声が聞こえる。
「メイおばさん!」ドンドンドン!「あいつらはまだ」「いつになったら」ドンドン!「あの親子を出せ!!!」
おばさんが目を大きく開けてぼくたちを見て、ドアを見て、それからまたぼくたちを見る。母のぼくの手を握る力がまた強くなった。
出て来い、と誰かが叫んでいる。時計の長い針は9を過ぎたところ。まだ12までは届かない。
もういい、開けろ、と誰かが叫んだ途端にドアは開かれ、たくさんの大人たちがドアの前にいた。
「ちょっとあんた達…、」
「メイさん、早いとここいつらを追い出してくれと言っただろう!」
「こいつらが来た途端にどれだけ人が死んだか…」
「こいつらが災いを連れてきたんだ!」
「こいつらは悪魔だ、悪魔だ!」
母がぼくを抱き寄せる。時計の針の進みが遅くなったように思う。おばさんを押しのけて大人たちは宿屋に入ってきた。宿屋は大人でいっぱいになって、大人たちはシカケ時計まで隠してしまった。
「お前達が」「悪魔」「あの子を殺したんだ」「魔女めさっさと出て行け」「お前達の所為で」「疫病神め」
大人たちの声が大きすぎて耳が痛い。みんな何かを怖がっているような顔をしていたのがぼくは不思議でたまらなかった。ぼくはこの人たちのほうがよっぽど怖くてたまらないのに。
「お前たちがこの町にきてから、ロクなことがねえ!」
母が震えながらぼくを強く抱き締める。ああ、泣かないでお母さん、ぼくがお母さんを守るから・・・
「でていけ、この悪魔!」
かすれた声で叫んだ男が母の頭を殴りつけた。母の真っ赤で綺麗な血が、ぼくの目の前で飛び散った。


ぼくは今は聖書を読むことだってできるけど、できない時もあった。
聖書が読めないと、母がいない時は外で遊ぶしかないけど、外が暗いとそれもできない。だからぼくはベッドで寝転んだりしながら母を待つ。
外の闇が部屋の中まで侵入してきてぼくを怖がらせた。灯りをつけようと思ってぼくはベッドから起き上がる。灯りは小さいけど、それでもぼくに安心をもたらしてくれるものだ。
「お留守番なのお留守番してるのひとりで一人ぼっちで偉いね偉いね偉い偉い…」
突然何かが羽ばたく音が聞こえて不思議な声がぼくに話しかけてきた。こんな声は聞いたことがない。神様の声ってこんな声なのかな。でもじゃあ今ぼくに話しかけてきたのは神様?そうとは思えない。
小さな灯りの中に浮かび上がったのは、そうだ、前に母に教えてもらったことがある、コウモリっていう名前の生き物だ。
「坊やひとりで寂しいでしょう坊や遊んであげようか坊や…」
コウモリが喋るたびに、何か鈴のようなものが鳴っているような、美しい音が聞こえる。それともコウモリの声が鈴みたいに美しかったのだろうか。
「さびしくないよ、お母さんがもうすぐかえってくるから」
「お母さん!坊やのお母さん!」
コウモリは急に甲高い声で笑い出す。その声も鈴が鳴るみたいに美しい。
「ああ坊やのお母さん坊やのお母さん知ってる知ってるよ坊やのお母さんのことなら知ってるちょっとした有名人だもの…」
「ぼくのお母さん、ユウメイなの?」
「そうともそうとも何てったって…ああああクスクスクスあああおかしいおかしいクスクスクス…」
笑いながらぼくの上をパタパタ飛び回った後、コウモリはぼくの肩に止まった。
「ねえ坊や坊やねえ坊やの名前は何ていうの教えて教えて坊やの名前…」
どうしようかな。名前は大切なものだって母が言っていた。それに力が宿っているものだって。勝手にコウモリに教えたりしちゃっていいんだろうか。お母さんに訊いてみなくちゃいけない。
「お母さんがいいっていったらおしえてあげるよ」
「いいのいいのよ教えたっていいのよだって私は坊やの仲間なんだから…」
「な、か、ま?」
「そうよそうそうそうなのよ私と坊やは仲間おんなじおんなじなのだからさあ名前を教えて…」
ぼくとコウモリが同じだなんてとても信じられない。だってぼくはコウモリみたいな翼も牙も持っていない。
「ねえ坊や教えて名前を教えて名前名前名前名前名前…」
コウモリの声を聞いているとぼくは頭がくらくらしてきて、何が何だか判らなくなってきて、もうばたんと倒れてしまいそう。
コウモリは名前名前と言いながら再びぼくの上を飛び回った。
「名前名前坊やの名前坊やは仲間私たちとおんなじおんなじ名前坊やの名前教えて名前名前名前名前名前名前名前名前…」
「ぼ く、ぼく、、、ぼく、は、、、、、、、」
その時コウモリが突然消えて、すぐに母が帰って来た。ぼくの頭はまだしばらくくらくらしていて、「あらまだ眠ってなかったの?」母に返事もできなかった。
頭のくらくらがなくなったぼくは母にコウモリのことを話した。その時の母の、悪魔を見たかのような怖ろしそうな顔。何かとんでもなくいけないことを言ってしまったのかと思ってぼくはすぐに謝ったけれど、母は聞いていないみたいだった。
母とぼくのゲームが始まったのはそれからだった。うその名前で呼び合う、あのゲーム。
どこでコウモリが聞いているかわからないから。そう言う母が教会へぼくを連れて行ってお祈りをし、分けてもらった聖水を撒くようになったのも、それからだ。
コウモリに本当の名前を教えてはいけないよ。連れて行かれてしまうから。


天使が音楽と一緒に踊っている。時計の長い針は12のところまでたどりついたみたいだった。
ぼくはただ、震えることもできずにそこにいた。
踊る天使、遠くの方で聞こえる音楽、部屋に満ちた鉄みたいな臭い、床に寝ているたくさんの大人たち、真っ赤なぼくの手。
床に寝ている大人たちは誰一人として動かない。おばさんもいた。おばさんも動かない。天使が踊っている。くるくるくるくるくるくるくるくる、くる・・・・・

おかあさん。

ぼくの喉はつぶれてしまったみたいだった。声が出たかどうかもわからない。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
おかあさん。
「あああああああああああああああああ可哀相に坊や可哀相に可哀相に可哀相に可哀相に可哀相にああああああああああああああ、、、」
「お母さんをお母さんをお母さんを坊やのお母さんをお母さんを坊やが坊やが坊やが殺しちゃうなんて!」
いつの間にどこから来たのかたくさんのコウモリがぼくの周りを飛んでいる。いつかみたいに鈴が鳴るみたいな声だ。
コウモリたちは床の大人たちの体にとまったりその上を飛び回ったりして、そしてどのコウモリの目も三日月みたいに歪んでて、口も裂けているのかと思うくらい吊りあがっている。
「可哀相にねええええ可哀相にネエエエエ坊や坊や可哀相にねぇえエエエエェェェエエエェエェェェ」
羽の音と鈴が鳴るような声が混ざり合って、何もかも食べ尽くしてしまいそうだった。
「悪い子悪い子坊やは悪い子」
「悪い子悪い子坊やは悪い子」
「悪い子悪い子坊やは悪い子」
「言ってご覧坊や言ってご覧言ってご覧ぼくは悪い子ですって言ってご覧」
羽の音鈴の音羽の音羽の音鈴の音もう時計の針の音も聞こえない羽の音鈴の音鈴の音。
ぼくはわるいこですって声が遠くで聞こえるけれど、あれは誰の声だろう。
「そうそうそうそうよく言えたねよく言えたねそうよそうよ坊やは悪い子悪い子悪い子坊やは悪い子…」
「坊や坊や坊や」
「クスクスクスクスクス…」
「名前を教えて坊やねえ坊や坊や名前を教えて…」
母の顔に触れてみるけれど、母の顔が血で汚れてしまって、そして、それだけだった。
「坊や坊や坊やねえ坊や坊や坊や坊や…」
母は神様の絵の具の色で溢れた、お空よりもっと高い所にいるのだろうか。きっとそこなら涙を流すこともないんだ。
ぼくはどうなるのだろう。乙女ジャンヌみたいに火あぶりにされるのかな。それともイエス様みたいに鞭で打たれて十字架にはりつけられてつばを吐きかけられるのかな。
「坊やの名前坊やの名前坊やの名前教えて教えてねえねえ坊やの名前教えて…」
だけどきっとそうなっても、火あぶりにされる乙女ジャンヌの為に涙を流した人たちは、ぼくの為に涙を流したりはしない。
「私達は仲間よ坊や知ってるでしょぉおぉぉ知ってるでしょぉぉぉぉおおおおおおおお」
「ねえねえ教えてよ教えてよ名前教えて教えて教えて名前名前名前…」
ヴェロニカもぼくにつばや血をふく布を差し出したりはしない。
「私達は一緒私達は一緒仲間なの仲間なの仲間なの仲間なの仲間なの」
マグダラのマリアも、サロメも、聖母マリア様も、十字架につるされるぼくを見守ったりはしない。
「私たちはおんなじ私たちはおんなじ私たちはおんなじ私たちはおんなじ私たちはおんなじ」
だってぼくの手はこんなに真っ赤だから。
「ぼ くは、、、ヨ セ フ」
「あああああ違うでしょう違うでしょう坊や坊や坊や坊やの名前はそんなじゃないでしょう」
「本当の名前教えて坊やの本当の名前…」
「ぼくはアブラハム」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはダビデ」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはヤコブ」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはソロモン」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはヘロデ」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはアーロン」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「ぼくはアビヤ、エコニヤ、サラテル、サドク、ヨハネ、パレス、ナアソン、オベデ、ウジヤ、エリウデ、
ピリポ、シモン、アンデレ、ヨナ、モーセ、レビ、ボアネルゲ、バルトロマイ、アルパヨ、タダイ、パウロ、アベル……」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
「違う違う坊やはそんな名前じゃないじゃないじゃない本当の名前教えて教えて教えて本当の名前!!!」
「ぼく、 


 ぼく、、 



 ぼくは…………」




ぼくの手から流れ落ちた血は床に溢れた血に吸い込まれて、消えた。
後から後から血はどんどん流れ落ちるけれど、全部全部床に広がる真っ赤に吸い込まれて消える。
まるで、その存在が初めからなかったかのように。
床に広がる血に、血にまみれたぼくの顔が映っている。


ぼくもこうなるのかな。
























































「 ドノヴァン 」




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