泥の中に埋没する 手を伸ばしたって何も掴めやしないのだが オレは空を見ながら泥の中に溺れていく がりがりがりがり。 錠剤を噛み砕き続ける。丸いの、穴が開いたの、細長いの。苦い味がするのだがその全てをオレは感じていない。 がりがりがりがり。 角砂糖は口の中で二つ三つに噛み砕き、それからじわりと溶けて甘い味が広がるのがイイ。クスリはマズイ。でもオレは噛み続ける。 何のクスリかは判らない、何でもいい、掴んで口に入れ続ける。がりがりがり。 もう随分死んでいない。 がりがりがり。こんな事を続けていれば、いつかオレは死ぬんじゃないか?だけどオレは死んでいない。オレにはクスリが効かないのかもしれない。がりがりがり。 それでもこのクスリ達は、いつかオレを呑みこんでくれないだろうか? 大好きな泥のように、ゆっくりゆっくりあたたかく。 「チョコラータぁ」 がりがりがり。オレはあんたの名前を呼ぶ。 「チョコラータァ!」 あんたの声は聞こえない。いつでも返事をしてくれればいいのに。(今は寝ているのだとしても) この地上の世界でオレはたったひとりぼっちでいるのだと、一瞬でも錯覚させないでくれ。 オレはクスリの詰まったビンを掴む。ほんの少し力を込める。それはぐちゃぐちゃになる。クスリはいくらでもあるから構わない。 オレに近寄るものは、ぜんぶ、ぐちゃぐちゃに。 アダム。泥から創られたものは全て泥に。 寝ているあんたを覗き込む。シーツよりも白いあんたの肌に右手を置く。 オレがそうしようと思えばすぐに、ここからあんたの全てはぐちゃぐちゃになっていく。 オレの大好きな泥に。オレを沈めてくれる優しいものに。 がりがりがりがりがりがりがり。 右手をあんたの首に置く。その上に左手も重ねてやる。 『君に興味を持ったからだ』 いつかのあんたはそう言った。オレもあんたに興味を持った、生まれて初めて自分以外の人間に。 強い強いあんたはオレに。命令をしてくれる。泥よりもすっぽりと深く。オレは眼を開いたまま埋没する。 「何をしてる」 白い瞼が開いてあんたの瞳が現れる。オレはどんな眼をしているのだろう?あんたの眼には何もない。 あんたやオレと同じように、イカれた人間特有の暗闇も狂った光も、その眼にはない。ただ子どものような、無邪気な純粋な好奇心を映すだけ。 あんたの眼には何もない。 悪意も憎悪も殺意も狂気も何もない。その眼のままに、あんたは人を殺していく。 あんたは殺意なく誰かを殺せるのだ。 オレはどんな眼をしてるのだろう? 「こうやって、ちょっぴり、ち、力を込めたら、あんたは、し、死ぬのか?」 「おれを殺したいのか」 「ち、ち違う、チョコラータのよく言う好奇心、だ」 「やってみるか」 がりがり。オレは考えるのが苦手だが、ほんの少し考える。右手からあんたの鼓動が伝わってくる。この白い肌の下には真っ赤な血が流れている。がりがり。がり。 「やるとしても、こんなありきたりな方法はよしてくれよ、おれは興味が無い。それよりも、お前にドロドロにされて死んでいく方に興味がある、どんな事を感じながら死んでいくんだ?」 がりがりがりがりがり。 あんたは包帯の巻かれたオレの左手に手を添える。ベッド脇のテーブルから、冷たく尖ったメスを取る。ゆっくり静かにオレの腕にそいつを当てる。 オーケストラの指揮者の様に美しい動きで、オレはいつも見とれてしまう。 あんたは少しも間違えずに静かに無感情にオレの腕を切る。痛みはない。時々痛みを忘れてしまう。 ぱたぱたぱた。 血は赤い。あんたの肌は白い。綺麗な色があんたを染める。 血は腕を伝って、あんたの首に。あんたはいつも笑っている。オレはそれを眺める。 眺められる空はどんどん少なくなっていき、伸ばした手は天上に開いたまるい穴に呑みこまれる 本当に呑みこまれたのはオレの体の方で、やがて手も地上から泥の中へ沈んでくる 別に掴みたいものなんか何もないのだが、すがることぐらいは求めてみる ぱたぱた。ぱた 少しだけ力を込めてみる。それでもあんたは笑ったまま。血があんたの首に色をつけていく。 「バカめ」 メスが落ちる。あんたはオレの頬に手を当ててくれる。 「まだ足りないのか。いつも自分を守るように泥で体を包んでいるくせに」 この赤い色にオレはどっぷり浸かっているのだが、もう随分前からそれが他人のものなのか、オレ自身のものなのか、判らなくなってしまった。 これよりももっと、泥の中は居心地がいい。安心できるあたたかい暗闇。 あんたは起き上がる。オレはまたクスリを噛み砕く。がりがり。部屋から出て行くあんたを見ている。 「何度もやらせるんじゃあない。私にお前を傷つけさせないでくれよ」 メスを拾ってみたが、血を舐めただけでまた床に落とす。あんたに切って貰うのが一番いい。自分でやると、溺れるまでやってしまうのだから。 やわらかいベッドの上から硬い床の上に足を下ろす。 こんなに確かな地面は嫌いだ。やわらかくあやうい地面の上に立っていたい。 「オア、ァシ…ス」 あんたがオアシスと名付けた力がオレの体を覆っていく。コイツはオレを何もかもから守ってくれる。オレはオレ自身を傷つけさせない。 少しだけ、床がどろどろになる。流れ落ちる赤い血がオレの後をついてくる。オレはあんたを追って歩いて行って、部屋を出る。歩くたびに足の下はやわらかくなっていく。この不確かな感触がオレは好きだ。 少しずつ、オレは沈んでいく。溺れることの無いように、ゆっくりゆっくり少しずつ。 沈みながら、少しずつ綺麗な水を飲み干していく。 ここは地面のずっと下で、地獄に殆ど近いのに、オレは手を伸ばすのをやめていない。 あんたにすがりつくぐらいはいいんだろう?そこからオレを見ていてくれ。 オレはやっと眼を閉じる。 そうしてずっと沈み続けていこうと思う。 オアシスは、いつかオレを呑み込んでくれるだろうか? |
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